いつ頃からか、話、会話について考え出したのは…
上の子がまだ2〜3歳の頃、ベビーカーで散歩をしていると中学生時代の同級生が偶然同じくベビーカーで散歩をしていた。それからお互いの家を行き来するようになった。
その後、ママ友同士で集まるようになって子供の誕生日会を我が家でした。
12〜13人で集まった時に私が何気ない発言をした時に、みんなが一斉に注目して見られてることにドキドキして顔が赤らむのがわかるくらい緊張して手汗脇汗がドッと出て、自分が自分でなくなるくらい頭が真っ白でもう何を話していたのか話そうとしていたのかがわからなくなった。
それからはそのことがトラウマになり大勢の前では発言ができなくなっていた。
ただ少人数だと堂々と話ができる。
このことは自分でもよくわからない…
ただ最近、コミュ症という言葉が広まって自分には無縁と思っていたが最近仕事に就いて女ばかりの職場でそれはそれは大声でおばちゃんの笑い声、大声での会話の中に入っていけず、昔のことを思い出した。もしかして私ってコミュ症?
だが少人数では話せる。これがコミュ症というのだろうか?それともただのあがり症?
ボキャブラリーの少なさ、話し方のテンポの悪さ、などなどを考えると話すこと自体苦手な方なんだろうなと思う。だから大勢の中で話すことを遠ざけていたのかも…。
コミュニケーションは大事だと思う。その取り方は人それぞれで聞く力、伝える力があればいいのではないかと思う。
自分から率先して話ことがコミュニケーション能力が高いとは言わないのではないか?
いまの会社ではほとんど口を開くことが少ないので周りからすると“変な人” “変わり者”など思われてるのではないか?
自分でも変なやつと思うもの…
だからどんどん仕事のやる気も失せてきてこのままではマズイと思う。
誰も相手にしないし、誰も協力してくれないのではないか?
家族に乾杯という笑福亭鶴瓶さんが言ってたことばで
「運がいいといろんな人と出会える。その人との関わりを大切にすれば縁ができ、その縁を大切にすることでツキまでまわってくる」
つまり、「縁は努力」なのだ。
では、「運」とはなにか。鶴瓶流に言えばそれは「ぼたもちが落ちる位置にいること」
と話されていてた。
あーホントだなと思いながら努力すらできない。
この歳で情けない。こんなはずじゃなかったのに……